柳沢吉保は、五代将軍となった徳川綱吉の抜擢により、まれにみる大出世をなした幕僚です。基本、ゼロサム社会だった江戸時代、何かあれば、減封、お家断絶もまれではなかったこの時代、大過なく勤め上げ、父祖伝来の俸禄を守り抜くことであってもたいへんなことのようでした。

そんな中、柳沢吉保は、22歳にして小納戸役830石、29歳にして側用人となり1万2千石の大名格に、35歳にして7万2千石の川越藩主となります。で、最終的には、甲府15万石の大大名にまで出世しました。周りからのうらやみ、恨みはいかばかりだったことでしょう。

悪政の代名詞のように言われている「生類憐みの令」など、彼の献策によるものとの説がありますし、なんと言いましても、赤穂浪士討ち入り事件では、彼の悪政ぶりが詳細に描かれている小説まであります。

実際のところはどうであったかはわかりませんが、三富新田開拓を命じたのは間違いない事実ですし、その後世に起きた享保、天明、天保の大飢饉において、この地域で作られるようになったさつま芋が多くの人民を救ったことも歴史がもの語っています。

写真は、柳沢吉保が建立した三富の鎮守寺「多門院」、ここには、武田信玄の守り本尊である毘沙門天像が安置されているのだとか。武田信玄の次男は生き永らえ、その子孫は、幕府の儀式典礼を司る高家としての職を与えられましたが、その仲介をしたのも柳沢吉保といわれています。なぜか、そうとうの武田贔屓(ひいき)だったようです。この近所では、「武田」姓の家も何軒か住み続けて今日に至っております。