前回の続きになります。

母の兄夫婦にはお子さんがいなくて、母の兄(私の伯父)が亡くなった後、私の義伯母は、お墓のことをとても気にしていました。

そのお墓は、荒川区の三ノ輪というところのお寺にありました。

義伯母のお考えは、そのお墓を私の父が眠るさいたま市内の墓苑へ改葬してほしいというものでした。そうすれば、私たちにとりましても、墓守の負担がぐっと減ります。

寺の住職との交渉、荒川区役所や父が眠る墓地の管理事務所での手続き等々、雑務がいろいろと発生しましたが、すべて私が執り行い、なんとか改葬をやり遂げました。もう、20数年前のことになります。

18年ほど前、その義伯母が亡くなりました。遺言書は残されておらず、お墓も含めて、全ては義伯母の兄弟が相続しました。

ある日、父母の墓参りの後、ふと立ち寄ってみましたら、墓石は建て代えられ「新井家」から、「新井家・宇田川家」の連名となっておりました(宇田川というのは義伯母の実家の姓です)。で、気になりまして自宅だったところを見に行きましたら、2等分されて両隣の家へ売却されていました。義伯母の兄弟がすべてを相続したとはいえ、家の中にあった仏壇、ずっと前に亡くなった私の祖母の遺品とかどうなったのでしょうか?彼らは私たちには一切説明なしで、生前のお二人の住まいだった家を取り壊し、更地にして売却したのでした。

昨年、義伯母の兄の子どもさんを名乗る方から突然電話があり、「私たちにはそれぞれお墓があるので伯母さんたちのお墓は守れない。共同墓所へ入れるので、その法事に立ち合ってほしい」とのことでした。複雑な思いが胸に去来しましたが、立ち合うことといたしました。

私は、かつて改葬の手続きをしたときにこの墓も一緒に墓守しようと考えていました。しかし、遺言が残されておりませんでしたから、どうにもなりませんでした。

↑ 改葬された遺骨は、裏側のこの入り口から「ザザザと流し込まれ」、骨壺は廃棄されます。もしかしたら、やがては私の遺骨もこの中へ・・・ということになるのかもしれません。少子社会の行きつく先、これがふつうの光景になるのかもしれません。

この墓苑は23,000区画ある大規模霊園です。私の父母が永眠する墓地は、三重塔の向こう側、写真を撮ったこの場所から歩いて6,7分の所にあります。

義伯母さんが遺言を残し、「墓守は青柳伸毅さんに委ねる」旨書いてくれたならば、お彼岸、お盆における墓掃除、線香上げ、供花、それから、年末での念入りな墓掃除を「ついでに」、ですが「必ず」行っていたことでしょう。この「ついでに」が継続していく上ではとてもたいせつになります。これが、改葬しないままに、荒川区の三ノ輪へ毎度毎度ということでしたら、ごめんなさい、自然に足が遠のいていってしまったことでしょう。義伯母の兄が亡くなり、その子供たち(義伯母にとっての姪たち、足立区あたりに住む70歳過ぎ)にしてみれば、この墓地は遠く、電車とバスを乗り継いでの墓参はしんどいことでしょう。共同墓所への改葬はやむを得なかったのかもしれません。でも、だからこそ、遺言で、それも本文でなくていいのです。「付言事項」ということで、私に墓守を委ねる旨書き残しておいてほしかったのでした。

私より60歳上、80歳で亡くなった、優しかった母方の祖母の骨も一緒に共同墓所へ移されてしまいました。このことが、とりわけ残念でなりません。